小倉毅D.C.「臨床家として、教育者として、事業家として」カイロプラクティックジャーナル

  小倉毅D.C.「臨床家として、教育者として、事業家として」

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小倉毅D.C.「臨床家として、教育者として、事業家として」

  

「この人に会いたい」第五回は、日本カイロプラクティックドクター専門学院(JCDC、理事長:新渡英夫)の学長であり、仙台校の校長も兼任、そして東北大学医学部の大学院に通い、その上、東北各地で「ハンズオン」オフィスを10数店舗展開し、さらに全国各地でアクティベーターをはじめ数々のセミナーで講義、まさに八面六臂の活躍をする小倉毅(おぐらたけし)D.C.に今回はご登場いただきました。

お忙しい中、限られた時間の中でしたが、実に歯切れよくお答えいただきました。淀みなく繰り出される興味深いお話に今回も大注目!

斎藤:先生とのお付き合いも15年を越えましたが、よくお会いする割には、今日は本当に珍しい形になりましたね! でも前々からいつかはこういう形でご紹介させていただこうと思っていました。よろしくお願いします。

まず、昨年の12月末に東京で行われたフィロソフィー・ナイト、そして今年の7月上旬に先生のところの新校舎をお借りして行ったソウルナイト in 仙台、まだ1年が終わったわけではありませんが、この1年の間に先生は2度も若い人たちの前で興味深いお話をされました。その中で先生は、“臨床家”として、“教育者”として、さらに“事業家”として、その3つのバランスを取りながらこれまでやってきたと言われましたが、その姿を若い人たちに伝えることにより、これから日本のカイロプラクティック界を担っていく若い人たちの大きな方向、目標になるのではないか、と。

当然、楽をしてここまでこられたわけではなく、負けん気とか、根性とか、いろいろなものを発揮されて、ここまでやってこられたと思うのですが、それを短い時間ですが、時間の許す限り思う存分お話しいただけますか。

小倉:私がカイロの勉強を始めた頃、今から思えば、かなり教育のレベルは低かったと思います。しかし、自分で選んだ学校に、昼夜働いてやっと貯めた百何十万という入学金、授業料を払って2年間通うのだから、そこで得られるものは例えどんなものでも吸収していこう、と。

カイロプラクティック自体ゼロからの出発だったので、もったいないことだけはしたくない、与えられた環境の中で覚えられるものはすべて覚えようと、2年間必死になって勉強しました。その結果、卒業してすぐに開業することができました。

斎藤:学校を卒業してすぐに開業される場合、ほとんどは学校側の主導で開業するようですが、先生はご自身で開業を考えたのですか?

小倉:開業は自分の考えでしました。ただし、借金から、つまりマイナスからのスタートでした。

斎藤:アメリカへの留学を考えられたのは?

小倉:開業はしたもののあまり十分な知識もなく、わからないことばかりですぐに壁に突き当たってしまいました。それでも先輩たちに助けられたりしながら、なんとか治療院も軌道に乗せることができました。平成元年から三年ぐらいまでの間に、地元を含めて3カ所、群馬県と茨城県で開業することができました。

当時、カイロプラクティック、整体という言葉はあまり知られてなく、カイロプラクティックがどういうものなのか、ということを患者さんたちに知っていただくため、さらに一生懸命勉強しました。そして開業して5年目に、やっと留学のきっかけとなる資金の一部ができたのです。

学校の実習で2回アメリカに行き、解剖実習を受けたときにすごいカルチャー・ショックを受けました。まず、日本の教育の現状とアメリカの教育との違い。臨床の現場での違い。そういう差がものすごく大きく感じられました。

「いつかは留学したい」と思ってはいたのですが、それが開業してさらに欲が出てきました。このまま中途半端な知識で治療するのは患者さんにも失礼だし、当時10人いたスタッフにも十分な知識を教えてあげることができないというのが現実でした。

そこで思い切ってスタッフと妻に「行ってもいいか?」と相談したら、快く承諾してくれました。「オフィスはこのまま自分たちが続けますから」とスタッフは言ってくれました。それで29歳で、30代に突入する前に渡米することにしました。

子供の頃から診てもらっている内科の先生が、留学をするなら35歳までにしないときつくなるよ、と常々言っていました。記憶力とか身体の状態とかを考えて、勉強するなら35歳までにやってきた方がいいよ、と。その言葉がずっと残っていました。

斎藤:先生とは留学される前に、カイロ連(日本カイロプラクティック連絡協議会)の会議で、何度かお会いしましたよね。あのときは所属団体から言われてやられていたのですか? それとも自発的に日本のカイロのことを考えてやられていたのですか?

小倉:どちらかと言うと、私自身の気持ちでやっていました。それは、開業して何回かD.C.の称号を持っている先生のセミナーに参加したのですが、自分が納得し感動できたセミナーは数えるほどしかありませんでした。

私自身は開業して、軌道に乗り、上手くいっていましたが、やはりこのままではいけないのではないかと自問自答していました。医療との格差もありましたし、なんとか自分の力で埋めなければいけないな、という気持ちが強かったですね。

斎藤:実際にアメリカに渡り留学されて、「これはまいった!」「しんどかった!」ということはありましたか?

小倉:「これはまいったな!」というのは2回ありましたね。1回目がライフ・ウエスト(カリフォルニア州ライフ・カイロプラクティック大学ウエスト校)に入学する前の段階での言葉の壁です。

ライフ・ウエストの入学には英語のスコアで550点以上を取らなければなりません。それが530点ぐらいまではいくのですが、それ以上どうしてもいかない。3カ月以上足踏み状態が続き、「もうだめかもしれない!」と思い悩んだときですね。

2回目がライフ・ウエストに入ってから。試験には受かるのですが、やっぱり完全に理解しているわけではない。英語で医学を学ばなければならないという、やはり言葉の壁でした。それに人種差別もありました。100人からいるクラスの中で、日本人は私1人ですからね。

斎藤:いろいろな壁を乗り越え、そして卒業し、日本に帰ったらまず何をしようと考えたのですか?

小倉:帰国前には、ライフ・ウエストで解剖学の助手とインターン生たちの指導員ということで、学生クリニックで仕事をしていました。

アメリカに残って、あと1年くらい続けてくれないか、と学長からも頼まれました。しかし、日本にオフィスを残してきましたし、資金も足りなくなってきていたので。でも、残ってまだ教えていきたいという気持ちもありましたけどね。

斎藤:それを断って帰って来られて、母校に戻ろうとは思いませんでした?

小倉:帰った当初はいろいろと考えましたけど、オフィスをどうするかが先決でした。ところが、スタッフに任せて出てきてしまった3カ所のオフィスは、スタッフの力で十分に成り立っている。もう自分たちでやっていけますから、と言われ。あれっ、私の帰る場所がないという感じで。

よしっ、それじゃあ1年以内に新しいオフィスを軌道に乗せてやろうじゃないか、と決めて、当時、斎藤さんにもご相談させていただきましたけど、広尾でスタートしました。開業したからには成功させなければいけないので、1年間はどこにも所属せずに治療と経営に専念しました。

4年間のアメリカ生活で、しがらみの少ない文化、習慣に慣れてしまったせいもあり、しがらみに影響されるのも嫌だったというのもありました。それでも、幾つかお誘いをいただき、その中で、やはり自分が教わった先生のところからのお誘いには少し悩みましたけど。

斎藤:広尾のお話を聞いたときに、ずいぶん思い切ったことをするなあ、と思ったのを覚えています。でも、先生には成功する事業家としてのイメージが既にあったんでしょうね。

小倉:そうですね。広尾に決めた理由の一つは、アメリカで培った経験があったからです。アメリカでの患者さんは9割方日本人だったんです。日本語のできるカイロプラクターということで、紹介をたくさんいただいて、早くにインターン実習の単位を取ることができました。

広尾というところは国際色豊かな地域で、英語のできるカイロプラクターがいたら、きっと流行るのではないか、という風な今考えれば単純な発想でしたけどね。まあ、それが結構上手くいって、早くいい結果を出すことができました。

斎藤:その後の事業家としてのお話は、また後でお聞きしますが、教育者としての日本でのスタートをお聞かせください。

小倉:広尾のオフィスもどうにか大丈夫だとメドがつき始めた頃、以前から知り合いの先生方からの誘いもあり、今の学校(JCDC)の講師を引き受けました。

「本当のカイロプラクティックを教えたい!」、「本当のカイロプラクターを育てたい!」という意識を持って、週に1回授業をすることになったのですが、授業の内容、カリキュラムが、私が教わった20年前とほとんど変わっていませんでした。その頃は一講師という立場だったのですが、上の方からカリキュラムを変えてほしいという依頼もあって、まずはそこから手をつけることになりました。

斎藤:先生が講師を始められた10年前と、現在とでは、授業の内容も学校もずいぶん変わったと思うんですが、受け手となる学生の方にも変化はありますか?

小倉:私が授業を受け持った頃の学生は、現在の学生と比べるともっとやる気が前面に出ていましたね。当時の学生は非常にやる気があって、高い教育を受けたい、という意欲もありました。将来、何になりたいというビジョンが明確に描かれていて、この道で将来食べていくのだという意識を持っていました。

それがここ10年、だんだんと落ちているような気がします。もちろん、かなりやる気のある学生もいますが、ときにはただ授業を受けているだけ、というように感じることもあります。学校に来てさえいれば、それだけでカイロプラクターになれる、と錯覚しているのではないかと。

斎藤:私もよく入学式や卒業式にお誘いを受け、スピーチをさせていただきますが、「あなたたち、入ったから必ずなれるわけじゃないし、出たから即できるわけじゃないよ!」と言うと、何か言いたそうな眼で睨みつけてきます。

学校に入れば、出れば、“してもらえる”と思っているんでしょう。個人の努力というものが、どこかへいってしまっているんですね。一から十まですべて教えてもらうのではなく、五から後は自分で学ぶということですよね。

小倉:私もそういうジレンマを感じます。私が校長を務める仙台校でも、同じ様な現象が去年あたりから始まっています。だとしたら、その考え方を教育者として変えてあげなきゃいけない。現場に入ってから困るのは彼ら自身なのですから。

斎藤:仙台校の入学式にお誘いいただいて挨拶させていただいたとき、高校を卒業したての、まだ女子高生のような人たちがたくさん並んでいるのを見て、大変失礼な話ですが、この人たち本当に大丈夫なのか、と余計な心配をしてしまいました。

小倉:今春入学した学生たちも、やっと半年ほど経ちまして、私が座学で教えているのですが、その授業で少しずつ少しずつ、たまにはガツンと説教もしながら教えてまして、最近やっと勉強する意思が見えてきました。(笑)

現在、仙台校で講師をし、「ハンズオン」泉店を任せている北原先生は、10年前に私が日本に帰ってきたとき、東京校で私が教え、初めて取った弟子の一人です。私が仙台に移るときに誘った一人でもあります。彼の「この道で食べていくんだ!」という意欲は若い人の参考になります。

斎藤:東北・仙台の地に臨床家として教育者として、さらに事業家としての可能性と夢を求めると。いよいよ、先生の次のチャレンジが始まったわけですね。

小倉毅D.C.

斎藤:次は事業家としてのお話に入りたいと思います。現在、仙台を中心に展開している「ハンズオン」についてお聞かせください。

小倉:青葉整体院という名前で始めましたが、当初は非常に苦労をしました。仙台駅前の一等地で始めたのですが、患者さんがなかなか来てくれない。東京の広尾で掴んだ手応えがここでは通用しない。アメリカに行く前に4カ所の治療院を軌道に乗せ、後輩の開業にも携わったりして。結構自信はあったんですけどね。

斎藤:結局どのくらいかかりました?

小倉:1年ですね。手応えが出てくるまでに丸々1年かかりました。

斎藤:その後、名前を「ハンズオン」に変え、現在、大型スーパー・イオン等で積極的に営業されていますが、その考えの原点はどこからきているのですか?

小倉:仲間、友人の影響が大きかったですね。青葉整体院をハンズオンという名前に変えて、ハンズオンとしての1号店を考えていたとき、たまたま隣町にイオンの大きなショッピングセンターができて、その中のテナントの一つが土壇場でキャンセルになり空きができたんです。そこにどうか、というお話があり、どうしようか、と結構考えました。

それで、私の親友でもあるJCDC札幌校の校長、川人誠司先生に相談したんです。彼は既に「らくね」という名前で、幾つかのオフィスを札幌で展開していました。

当時、4、5軒あった店舗を、まず見学させてもらえないか、勉強させてもらえないか、とお願いしたんです。全部の店舗を2、3日かけて見学させてもらいました。そのときに得たノウハウに自分の考えを加え、これだったらいけるのではないか、という確信を持って1号店に臨みました。

斎藤:その後、チェーン展開するように、次々と開店されていきましたね!

小倉:私がチェーン店展開していくのには幾つかの理由があります。一つは卒業生たちの就職先の確保です。学校を卒業して就職先を考えると、接骨院や鍼灸院は結構ありますが、カイロのオフィスとなると東北ではかなり少なくなります。純粋なカイロのオフィスに就職をさせてあげたい、それなら卒業生の受け皿として、カイロのオフィスを自分でつくるしかない。

もう一つは卒業生全員が卒業して、すぐに満足いく治療ができるわけではないですから、技術をまだ習得できていない卒業生に対し、さらに学びながら技術を習得できる“仕事場”を提供しなければいけないという考えです。

例えば、始めはマニピュレーション操作を担当してもらって、矯正ができるようになったらテストをし、合格したら、早速患者さんを診てもらうというやり方です。できない人を切り捨てるのではなく、できるように育てるというやり方です。

斎藤:これは、ほぼ生涯教育に近いやり方ですね。その人が食べられるようになるまでずっと面倒を見るということですね。盛岡、白河にも「ハンズオン」ができてきて、さてこれから、さらなる展開を考えたとき、臨床家、教育者、事業家のバランスを取ってきた先生にとって、どのような人材を求められますか?

小倉:これはもうはっきりしています。カイロプラクティックのどの本にも書いてある「三原則」。哲学、科学、芸術、この三つすべてが平等に扱えるような人を求めていきます。考え方だけの“頭でっかち”でもダメ。技術だけに走る人もダメです。技術と知識が一体化されて初めて治療が成り立つので、科学も重要視しています。

そういうバランスの取れた人を育てて就職させ、私の下で一人前にしていくということです。偏った人は修正してあげればいいのですが、私の目が届かない日本全国となると、これは不可能です。

きちんとした学校教育を受けさせて、一人前の臨床家になるためのさらなる研鑽をさせて、そして事業家としても成功させてあげる。私が目指すのはそういうカタチです。

斎藤:では、先生の今後10年の目標をお聞かせください。

小倉:仙台を中心に東北で、みんなでつくり上げたハンズオンのブランド、信頼をもっと高めていきたいですね。ハンズオンに行けば“腰痛治る” “肩こり治る” “首痛治る”というような、「身体が痛い」ならハンズオンに行こうということを、地元に根づかせることが目標です。

ビジネスはその後のこと。良い技術を提供すれば、お金は黙っていてもついてくるというのが、我々ハンズオンの経営理念です。

斎藤:これからカイロプラクターを目指す学生たちが、そのことをちゃんとわかっていないと。お金が先にくるような考え方では困りますからね。診断もできない。技術も身についていない。そんな人のところに誰が診てもらいに行きますか?

小倉:その通りです。その辺の自覚をしっかり持ってほしいですね。私も勉強は決して好きな方ではありません。でも、やはりカイロが好きなんですね。好きだからこそやってこられたし、いつも今何をやらなくてはいけないのか、という自覚は持っていたつもりです。

斎藤:いま、東北大学の大学院に通われているそうですが?

小倉:勉強嫌いの自分が通っているなんて、ちょっとおかしいでしょ。良い治療を心掛けて患者さんを診ていたら、あるとき東北大学の先生と知り合いになり、その先生がカイロの施術に感激されて一緒に共同研究をしたんです。

そして、その次に大学院の話になって通わせていただいているんです。研究なんて今までとは違う世界ですから初めは戸惑いました。それがやっているうちに、なんかいいなと思い始めてしまい、困ったものですね。

斎藤:今回、その成果を日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC、会長:中川貴雄)第10回記念学術大会のポスターセッションで発表されましたね。

小倉:「カイロプラクティック施術前後における脊柱の解剖学的位置関係の評価」というタイトルで、東北大学と仙台厚生病院の共同研究です。

斎藤:徒手医学会では、以前にもワークショップ、一般発表と先生にはご協力いただきました。徒手医学会について何か一言あれば。

小倉:学会の方は、皆さん科学的にカイロプラクティックの検証を求めて勉強している方々ばかりです。私もお手伝いさせていただきながら、一緒になってカイロプラクティックの科学的検証をして、法制化に結びつくようなデータを残せればいいなと思っています。そこに一つでも、二つでもお役に立てればというのが、今の研究者としての考えです。

斎藤:最後になりましたが、先生の個人的な夢をお聞かせください。

小倉:今後15年間は、今の臨床家、教育者、事業家の仕事を一生懸命やりたいと思っています。15年経ったら治療だけの臨床家としてのみやっていこうと考えています。ちょうど還暦になるので教育者、事業家は隠居させていただく、とスタッフには言っています。

その頃には、現在いるスタッフがしっかり引き継いでくれると思いますし、安心して任せられるようになっていることでしょう。

斎藤:今日はお忙しい中、貴重なお時間を割いていただき、本当にありがとうございました。先生の益々のご活躍を期待いたしております。


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