其ノ三十二「中川さんとお会いして早35年」カイロプラクティックジャーナル

  其ノ三十二「中川さんとお会いして早35年」

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斎藤信次残日録 其ノ三十二「中川さんとお会いして早35年」2019.02.20

前々回、「源兵衛」で50年近い昔を振り返ったが、中川さんとお会いしてからも早35年が経過している。最初にお見かけしたのは、「脊柱モーション・パルペーション(MP)」の出版が1985年だから、それより2年くらい前のことだと思う。

ロサンゼルス・カイロ大学(LACC、現在の南カリフォルニア健康科学大学:SCUHS)の助教授と聞いて、日本人で本場アメリカの大学で教鞭をとるなんて、と大いなる関心を持った。その頃、竹谷内兄弟、須藤さん、徳太郎さん、塩川さんの訳本が出版されていて、各団体のイベントなどにも顔を出し始め、ほんの少しだがカイロのことを知り始めた頃だった。聞くと、中川さんは私より5つ、6つ上なだけ。なるほど奥さん同伴で若い印象だったが、塩川さん、徳太郎さんとほぼ同世代で、アメリカ在住というのが結構効いていたのかもしれない。

永遠のロングセラー「脊柱MP」

「カイロの理論・応用・実技」に始まり、「明解図説 カイロ・テクニック」、「四肢のテクニック」、「整形学検査法」、「最新カイロ」、「マニピュレーション治療」、「パーマー系カイロ」などが出版されていたと思う。そんな中にこの本が加わったわけだが、最初は他の本ほど売り上げが伸びなかった。本場アメリカのというフレコミよりも、MPという言葉にまだ馴染みがなかったのであろう。しかし時が経つにつれ、じわじわ馴染んでゆき、レントゲンを使えない日本において、検査法の決定版として、その後20年以上にわたってロングセラーを続けた。正に著者、出版社冥利に尽きる一冊となった。

教科書搬入でてんやわんや、また味わいたい

この本に限らず、最も科学新聞社の本を教科書に採用してくれたのが、日本カイロ・ドクター専門学院(JCDC)であった。2期制で4月生と10月生合わせ、ピーク時には500人近い学生が入学していた。他にも、PAAC(パシフィック・アジア・カイロ協会)のユニバーサル・カイロ・カレッジ、シオカワスクール、国際カイロ・カレッジ、MCC(メディカル・カイロ・カレッジ)横浜、ハンズ・プラクティス・カレッジ等々、数え始めたら両の手足では足りないほどの学校が「脊柱MP」を教科書に使ってくれた。

それらの学校への納品の手配は、部屋中に本を並べ梱包し、それはそれは大変な作業だった。しかし、これがないと新年度を迎えたような気がせず、今回はどれぐらい出るかなと期待に胸膨らむ時期でもあった。JCDCだけでも全国に10校近くあり、それらを計算しながら、倉庫から何部持ってきて、送り間違いのないように一つひとつ確認しながらやっていくのである。社員から「梱包、発送は僕らがやりますよ」と言われても、自分が段取りして発行した本が減っていく姿は、何にも代え難くてついつい自分でやってしまっていた。この数年、ついぞそんな雰囲気を味わったことがない。もう一度と言わず何度でも味わいたい感覚だ。

米国カイロ・ツアー、「私が連れていくんですか?」 

1986年に私が初めて米国カイロ研修・視察ツアーを企画した。結果、思ったほど参加者が集まらず、添乗員を付けず現地(シアトル経由シカゴ)まで、私が添乗員の代わりを務めて出発することになった。ヒヤヒヤものだったが、何とか現地添乗員にバトンタッチしたときは、場所が場所なだけにホッとするのを通り越すほどの安心感だった。添乗員の名前は白石(しらいし)さん、今でもはっきり覚えている。

当人同士は無意識、腐れ縁?

また、このツアーで未だに何かと付き合いのある(当人同士はいたって普通の付き合いをしているつもりだが、こういうのこそがマジ腐れ縁と言うんだろうなと思える)秋山さんと出会った。彼についてもそのうち書くことになると思うが、呆れるほどの江戸っ子気質で、人見知りしないわけじゃないと思うが、それが人目には全く見えてこなくて、驚くほど交友関係の広く、そんじょそこいらにはいない、なかなかの人だ。当人にも言っていないが、テレビで高田純次氏を見ると、即座にこの人を思い出す。当人にとって、「へぇー」なのか、「そりゃねぇだろ」なのか、今度聞いてみよう!

このツアーでも、当人は何も意識して行動していなかったと思うが、経験のない私にとっては心強い味方で、何かにつけ助けてもらった。もちろん現地添乗員の白石さんともすぐ仲良くなり、時間外には夜の研修・視察に連れていってもらっていた。

ドクター・ミツ、塩川満章という人

ツアーは、ダベンポートのパーマー大学のホームカミングに参加して、同時期に同地を訪れている塩川さんに小セミナーをやってもらうことになっていた。しかし、塩川さんは約束した時間に草競馬に行っていて、ものの見事にすっぽかされたのである。

このときは腹も立ったが、その後の塩川さんとの付き合いで、こんなことで腹を立てていたら身が持たぬことを知った。塩川さんのエピソードを語り始めたら、「そんなぁー」とか、「まさか」と信じてもらえないことが多く、それだけ浮世離れしているわけで、話す方も自ずと力が入ってしまう。

塩川さんに出会えて本当に良かったと思っている。カイロにどんどんのめり込むキッカケを、これでもか、これでもかと見せてもらった。最近は、私が科学新聞社の社長を辞めたと知ったら、勝手に一線を引いたと判断してしまい、とんと連絡が来なくなってしまった。たまには会いたい気もするが、会えば会ったでマイペースにはめられてしまうので、そのままにしている。今度は私がマイペースをかましてみようかな? いや、世界のミツに叶うわけないな! それなら、心して連絡してみるか!

地獄に仏、LAで中川さんに救われる

また、だいぶ回り道をしてしまったが、すっぽかされてどうしたかと言うと、これはツアー中にどこかで穴埋めするしかない。固く心に決め、意を決して急きょ、ダベンポートからロサンゼルス(LA)の中川さんに電話をかけ、小セミナーをお願いした。

「いいですよ!」と快諾していただけたときは、良かったぁーとホッとしたのを覚えている。思うに、このときに中川さんとLAでお会いしたのが、彼との関係を深くしてくれたキッカケだったのだろう。塩川さんとはまた違った形で、カイロにのめり込むもう一方のキッカケになった。

カイロにのめり込むキッカケ、塩川さんと中川さん

前にもどこかで書いたと思うが(このブログでかな?)、私が巨人、長嶋氏、そして王氏のファンだったというわけではなく、長嶋氏がミスター・プロ野球なら、塩川さんはミスター・カイロだと勝手に思っている。スクールからどれほどのカイロプラクターを輩出したか、海外からの講師をどれだけ招いたか、カイロプラクターたるものかくあるべきを説き、記録より記憶に残り、そのエピソードたるや感性の赴くまま、とても常識では計り切れない。

一方、王氏は世界のホームラン王で、一本足打法を極め、ひたすら野球道を貫いた。中川さんを王氏になぞらえることができる。中川さんは臨床を主に、学校はつくらなかったものの、勉強会・MPSG・大学と教育にも精力を傾けた。カイロというよりは、治療たるものかくあるべきを第一義に考え実践してきた。

硬派、軟派で分けてはいけないと思うが、その生き方を見てきた私から言わせてもらうと、塩川さんがカイロプラクターの魅力を軟らかく伝え、中川さんが治療する醍醐味を硬く伝えていると思う。あなたはどちらのスタイルを目指しますか、といったところだろうか?

紹介したい人が次々に

書いているうちに、たぶん年嵩の高い順だと思うが、須藤さん、加瀬さん、徳(太郎)さん、遠藤さん、大谷さん、やっさん(小柳さん)、喜ちゃん(鈴木さん)の顔が次々に浮かんできた。その魅力を伝えずにはいられない。まだまだ書き続けないといけないということか?

昨年11月半ばからのことも、まだ書けていない。ちょっくら書きたいことばかり書いてしまった。次回は昨年のことだけは書いておこうと思う。では、また。

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